【シンリーボーテ誕生物語1】仕事に明け暮れ、30代で気が付けばオバ顔に!

シンリーボーテの生みの親、申弘美(通称:シンリー)ってどんな人? なぜシンリーボーテを開発したの?
全4回のインタビューを通してお伝えしていきます!聞き手はシンリーボーテスタッフが行い、和気あいあいとした雰囲気の中で、いろいろなエピソードが飛び出しました!
第1回は「幼少期からキャリアウーマン時代」編。小さな頃から美容に関心があったシンリーが、どんな社会人になったのか・・・。ぜひご覧ください!


化粧品大好きのおしゃまさんが、外資系キャリアウーマンに。


●まずは、シンリー社長の幼少期からお尋ねします。小さい頃はどんな子どもだったのですか?
「ソバカスちゃん」と呼ばれるほどソバカスだらけ、3人兄妹の末っ子でした。母親の化粧水をコットンにつけて顔に貼ったり、口紅を塗ってみたり、お化粧品に関心のあるおしゃまさんだったみたいです。中学生になるとニキビがおでこにぎっしりできて、高校生になると、頬や鼻、あごもニキビだらけになってしまって、どうしたらニキビが治るか研究していました。市販の治療薬を塗ったり、アロエを顔に貼り付けてみたり、いろんなスキンケアを試していましたね。
●化粧品への追求心は、小さな頃から芽生えていたのですね!大学生活はどうだったのですか?

美白ブームの現在とは真逆で、肌を焼くのが流行っていた時代でしたね。私も、コンガリ小麦色のお肌に、髪はストレートロング、当時の定番スタイルで青春を謳歌していました(笑)
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←シンリー女子大生時代。日焼けした肌がトレンドの時代でした。
●大学を卒業して就職したころはバブル期ですよね?
そう、まさにバブルまっただ中でした。入社当時は5時になると会社のトイレでクレンジングをして1からメイクをやり直していました。フルメイクで着替えもして、合コンに通う日々です。(笑) 
でも、それも初めの数年だけでしたね。段々仕事の方が楽しくなってきて、肩書も付いていったりして、忙しくなっていきました。外資系の会社だったので、東京・ニューヨーク・ロンドンとのやり取りのため、気付いたら、1日のほとんどを会社で過ごしていました。帰りは、ほとんど午前様、家に寝るためだけに帰るっていうかんじでしたね。
●・・・すごい激務ですね。家に帰ったら、メイクも落とさずにバタンってかんじですか?

それが、ちゃんとメイクだけは落としてから寝ていました。忙しくても美容のことはとても気にしていましたから。意識もうろうでフラフラ状態でも、メイクしたまま寝たら老けるぞ!と自分を脅迫していました。休みの日は寝だめして、肌を回復させていました。でも、寝だめで肌が回復したのは20代までですね。キャリアアップのために数回転職しましたが、常に成果を求められているので、どんどん仕事がハードになっていき、年齢も重なる分、肌の疲れが目に見えて分かるようになってしまいました。ファンデーションがどんどん厚くなっていきましたね(笑)

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海外とのやり取りが深夜に及んだ毎日。トレードマークの赤いメガネはこの頃から!→

●まさにキャリアウーマンですね。

無我夢中で働いていましたね。自分が頑張る分、結果も出て、ステップアップしていくのが楽しかったのだと思います。1日18時間労働なんて当たり前でした。

キャリアアップで、見た目年齢までアップ!

●そんなにハードワークだと、体や肌に相当負担がかかっていたのでは?

そうですね、じわじわと負担がかかっていったと思うのですが、40歳過ぎに生理が乱れはじめ、次々と肌に異変が起き始めました。体重が落ちたわけではないのに頬がコケ、毛穴は開いて涙型に、夕方にはファンデーションが目の下とほうれい線にくっきりめり込んでいました。朝はピシッとメイクしていても、夕方にはとんでもない老け顔に。朝と夕方では見た目年齢がまったく違うようになってしまって、とてもショックでした。

●お肌に異変が起きてしまったのですね。仕事を少しセーブしようとか、考えませんでしたか?
責任のある立場にいましたから、仕事で手を抜くことはできませんでした。肌の状態を改善するために、美容オタクが進行したのはこの頃からです。いいと言われるものは、高級コスメからドラッグストアのコスメまで、ありとあらゆるものを試しました。休日は、化粧品探しとエステに費やし、相当お金もかけましたが、なかなか肌の状態が良くならなくて、このまま歳をとってしまったらどうしよう!とかなり焦っていました。
↓某エアラインの機内誌に、キャリアウーマンを紹介する記事の中で掲載。ニッコリ笑ってるけど、実はお肌絶不調でした!


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